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2011年3月25日金曜日
地震から2週間経ちましたが,被害は一日一日深刻さを増しています。今回の地震が阪神淡路大震災と大きく異なってしまったのは,津波があったこと,そして,そのために,他の何者でもない原発に事故が発生してしまったことにありますね。
最初に,原子炉の入った建物で爆発があったとのニュースを聞いたときに,咄嗟に,黒澤の晩年の作品「夢」にあった原発事故のエピソードを思い出してしまいました。> そこでは,(映像作品としての特性から,)放射線に色をつけることが可能になったという技術革新をブラックユーモアとして使っていましたが,ここ数日の天気予報で,各地域の花粉の飛散情報と並んで,モニタリングされた放射線の検出数値が発表されている様を観ていると,現実の方がフィクションを超えてしまったようにも感じられます。
黒澤映画は,時代劇だったり,刑事ドラマだったり,スポーツものだったりと,いろいろな舞台装置設定を変えながら, つまるところ, どのフィルムも,観客に対し,より高い次元での生を倫理的に求める内実をもっていますが,> それをヒューマニズムと呼ぶ人も多いですね。
「生きものの記録」は,核問題,放射能汚染という設定を正面に据えている点で,特異な作品となっています。ぼくが生まれる前に公開されている作品ですから,リアルタイムでの感覚などはまったく分かりませんが,> なにしろ,この映画が公開された時点では,広島長崎への原爆投下からまだ10年しか経っていません。
それでも,「生きる」「七人の侍」と映画の歴史に燦然と輝く畢生の名作を立て続けに生み出した映像作家が,その次の作品に放射能という設定を選んだということ自体がすでに驚きです。
この作品,実際興行的には散々だったようですし,今日の映画批評をみても,賛否両論どころか,むしろ,黒澤の失敗作という評価が定着している様に思われます。失敗作と断じる批評をみると,その多くに,この映画は何を云いたいのか分からないと書かれているのですが, _ その他,主題がぶれているとか,設定に無理があるなどといった評も,要するに制作者の意図が理解されていないという一点では同じに分類してしまってよいように思います。 _ しかし,他の黒澤作品と同様,この作品でも,主題はこれ以上ないほどに明確です。ぼくに云わせれば,分からないことが分かりません。物事に論理と感覚の二つの極があるとするならば,ベートーベンの音楽や,漱石の小説,そして,黒澤の映画は,もっとも論理的に組立てられた芸術です。運命交響曲で,一つの動機からすべての楽想が論理的に展開されていくように,黒澤の映画でも,すべての台詞や演出は,論理必然的に展開し,それ以外にはないというところまで徹底的に考え抜かれ,詰められています。そこでは,感覚的なもの,曖昧なものは一切ありません。黒澤映画くらい分かりやすく,云いたいことのはっきりしたフィルムは他にそうないように思います。> 黒澤という作家が国際的である要因もその辺りにあるのではないでしょうか。
この映画の主題は,要するに,日常生活の中で,あるときは,理性という名の常識によって,あるときは,社会的な地位・関係というシステムによって,人間が本来生来的にもつ動物的な本能が去勢されてしまい,生命の危険を察知してもそこから逃げることすらしない,たとえ,その危険が核兵器や放射能という,逃れようのない途方もない恐怖,重大な問題であったとしても,その問題を考えることすらしないで済ませてしまう,そんな私たちの毎日の生活や,その無思慮な態度に警鐘を鳴らずところにこそあります。> 残された映像は,これ以外の解釈を許しません。
三船敏郎演じる主人公は,結局社会常識の化身である法律の規定に従って準禁治産の宣告を受け,動物としての本能に忠実な三船演じる老人にもっとも共感をもって接していた,知識人層を代表するような人物設定の志村喬演じる歯科医ですら,ラストシーンでは,左右に上り坂と下り坂に別れたスロープを下りていくことになります。このラストの象徴的なシーンに,この作品での黒澤による指摘によっても,なお放射能汚染の問題に対して決して真剣には向き合うことをしない観客の姿がすでに取り込まれています。映画は,この人々の姿勢,言い換えれば,人間の心こそが,放射線の数値や,その人体に及ぼす影響よりも,もっと深刻な本当の問題であることをこれ以上ないやり方で訴えかけています。
今朝保育園に子どもたちを送っていったとき,出社しようとするお母さんの手を泣いて離そうとしない子が二人もいました。子どもは大人と違って常識もしがらみもありませんから,喜びでも,不安でも,気持ちを一層ストレートに表現する生きものなのかも知れませんね。
2011年(平成23年)3月25日 金曜日